mayさんの自転車日記

自転車ツーリングが好きです

廣瀬さんとの想い出

2020年8月30日(日)0時40分、 C.S.Hirose 店主廣瀬秀敬さんが亡くなりました。

7月15日夜に高熱のため緊急入院し、その後は順調に回復されていましたが、突然帰らぬ人となってしまいました。
享年78歳でした。

私の心にぽっかりと穴が開いてしまいました。


オーダーのこと

私が初めて廣瀬さんのところに伺ったのは、1975年のことでした。
WFRの先輩がキャリアをオーダーするというので、一緒に行ったのが初めての訪問でした。
その後、廣瀬さん通いが始まります。

当時のお店の写真はないのですが、そのあとに改築されたときの写真です。

1988年当時のお店

廣瀬さんが開店したのが1970年。私の初めての訪問は開店5年目のことでした。
当時キャリアを作ってはいましたが、まだフレームの製作はされていませんでした。
当時のニューサイクリングの広告には、TOEI、ZEPHYRオーダー受付とあります。

New Cycling誌 1970年5月号の広告

そして私が初めて訪問した1975年の広告。
このころから廣瀬さんの自転車に対する思い・考えをアピールする内容へと変わっています。

New Cycling誌 1975年5月号の広告

高校時代から乗っていた片倉SILK PR-10、夜の山手通りを走っていて、段差に気づかずに突っ込んでしまいフレームを壊してしまいました。
そこで、当時通っていた廣瀬さんにお願いして、TOEIのフレームをオーダーしました。
このころは、NC誌に洗脳(?)されていて、フレームはTOEI、パイプは531、ラグはTOEIマリエーブル等々、今にするとちょっと恥ずかしい、全く自分の考えのない仕様です。
廣瀬さんにはかなり無理を言いましたが、青二才の私の注文にもあまり文句を言わずにオーダーを受けてくださいました。フレームの色は、一緒に行ったY先輩が来ていたコートの色にしました。のちに、私の自転車がほとんどこの色に塗られることになります。
キャンピング仕様なので、キャリアはもちろん廣瀬さんにお願いしました。
廣瀬さんと相談した結果、通常はサイドキャリアを外せて、キャンピングでは付けられるようでき、しかも頑丈なキャリアができました。

この自転車は1976年秋にオーダーし1977年春に完成しました。学生時代の思い出がつまった1台です。

1977年保福寺峠
1978年夏合宿

後に廣瀬さんに聞いたところ、このころはTOEIに行き、廣瀬さんの考え方に基づいて作り方を指示していたそうです。
TOEIともよい関係で、無理な注文も聞いてくれたそうです。
私のTOEIもその1台。とても乗りやすい1台に仕上がっています。

このフレームは、青崩峠へ行った際、輪行袋が電車の風圧で倒れのTOPチューブが大きくへこんでしまいました。
今回TOEIに塗り替えに出した際にパテで埋めてもらい、すっかり新品のようになりました。
久しぶりに乗ってみたところ、今でも、よく走るので驚きました。

レストアした1978年製TOEI

さて、その後、廣瀬さんはご自分で自転車をつくりはじめます。
ご自分で立てた予定では1980年開始だったそうですが、顧客の強い要望で2年前倒しの1978年から作りだしたそうです。

1981年、社会人になった際に、廣瀬さんでスポルティーフをオーダーします。
その時、完全内蔵をやったことがないというので、私の自転車を実験台にしてみてはと提案しました。
このヒロセ初の変速ワイヤー内蔵+カーボンブラシという自転車を試行錯誤しながら作ってくれました。
後に廣瀬さん曰く、「今はもっと簡単な構造になっているけど、当時は自分でもどうやって作ったかわからないほど複雑になっているね。
カーボンブラシのばねは、ボールペンのものを使ったよ。」と。

1982年1月グリーンラインにて

このフレームは、しばらく乗ったのち、廣瀬さんに記念の一台として差し上げましたが、その後どうなったかはわかりません。

もう1台の初ものは、ミニベロに採用した、BBセットです。
これも廣瀬さんがやってみたいということでしたので、チャレンジをOKしました。
試作1号は、100mほど走ったら壊れてしまいました。
原因は、BBワンが薄すぎたためでした。改良型の試作2号はかなりハードな走りをしていますが、全くノントラブルで今でも快調です。
写真はありませんが、シートチューブに内蔵のインフレーターのプッシュオンアダプタも廣瀬さんのオリジナルで、初ものです。

2002年製 ミニベロ
試作2号


VCHKのこと

廣瀬さんのクラブVCHKは Ⅰ, Ⅱ , Ⅲとあります。VCHKとは、VELO CLUB HIROSE KODAIRA のことです。
VCHK Ⅰは、1971年~1984年まで活動し、年8回のタイムトライアルをしていました。
VCHK Ⅱは、1988年~1994年まで活動しました。お客さんが、VCHKⅠの8mmビデオを見て自分たちもやりたいということで始まったそうです。
VCHK Ⅲは、1998年から現在まで活動しています。年2回のツーリング主体の活動です。

VCHK Ⅲは、私第1回から時々参加しています。
記念すべき第1回目は、そのころ、廣瀬さんの別荘のあった清里をベースとした、清里周辺の周回ルートでした。
廣瀬さんがタンデムに乗っている当時の写真が残っています。

第1回 VCHK Ⅲ (1998年)

2001年のVCHKでの一コマです。
お客さんの自転車に乗っているところを撮影しました。

清里大橋にて

2002年には、タンデムで参加されました。
奥様と一緒に走られました。

上州匠の里にて

廣瀬さんが参加された最後のVCHK Ⅲは、2019年5月の道志温泉でした。

2019年5月 道志温泉日野出屋にて

2020年5月にも企画していたのですが、新型コロナのために10月に延期。
私が幹事でしたので、廣瀬さんも楽しみにしていただけに、5月に無理にでも開催しておけばと、今でも悔やまれます。


ハンドメイドバイシクルフェア

廣瀬さんはハンドメイドバイシクルフェアにも積極的に出展していました。
かなり昔に箱根(小涌園?)であった時の話とかをよく聞かされましたが、私には古すぎてよく知りません。
ALPSの萩原慎一さんと話されたことなどを話されていました。

写真を整理して出てきた、私が持っている最初のハンドメイドサイクルフェアの写真が、2005年のものでした
なお、この後、私は6年半ほど海外駐在というサイクリング暗黒時代に突入しました。

ハンドメイドバイシクルフェアに向けて準備中
2005年 ハンドメイドバイシクルフェア

業界では異端といわれる廣瀬さんですが、サノマジックの佐野さんとは不思議と気が合うようです。
きっかけは、ブースが隣りあわせだっと時だそうで、それからはハンドメイドバイシクルフェアでは、毎回準備が終わると真っ先に佐野さんに挨拶に行っていました。

先日、佐野さんに聞いたところ、「自分の独自路線を貫いている職人同士なのでそのためではないかと思う」とのことでした。
佐野さんは、訃報を告げたところわざわざ焼香に駆けつけてくれました。

2018年 佐野さんと歓談する廣瀬さん
2019年 ハンドメイドバイシクルフェアでの公演
2020年 最後のハンドメイドバイシクルフェア

ところで、2011年4月に「BS-TBS銀輪の風」で廣瀬さんが取り上げられました。
番組ではハンドメイドバイシクルで廣瀬さんの存在を知ったと語られています。


お店での廣瀬さん

廣瀬さんのところには、もう何度通ったかわかりません。
しかし、廣瀬さんのお店での写真はほとんどが工作物やフレームの写真で、廣瀬さんが写っている写真はほとんど残っていませんでした。
数少ないお店での廣瀬さんの写真で廣瀬さんを偲びたいと思いました。

まずは、2010年。お店の前での私の自転車(スポルティーフ)と廣瀬さん。

2010年

次は、2014年にJan Heineさんと訪問した時の写真です。
ある日、大前さんからJanさんが廣瀬さんのところに行きたいと言っているので案内してくれないかとの連絡があり、二つ返事で引き受けました。

2014年 Janさんと
2015年 Janさん再訪問
2015年 Janさん再訪問

この時の訪問の記事がBicycle Quarterly 誌53号に掲載されました。廣瀬さんはたいそう喜び、10冊追加で発注したほどでした。

www.renehersecycles.com

次は、私の自転車のホイールの振れ取する廣瀬さん。

2015年 ふれとりする廣瀬さん

2017年に旋盤でネジを作ってもらっているところです。
この旋盤はかなりの年季で、裏にいた職人のおじさんから譲り受けたものです。
本人曰く、旋盤の前オーナーが、旋盤の師匠でいろいろ教えてくれたとか。

2017年 旋盤と廣瀬さん

2017年に廣瀬さんに癌が見つかりましたが、治療を受けながら、自転車を作る日々が続きます。
私が言うのもなんですが、廣瀬さんにとって、自転車作りは生きがいでした。

2018年の廣瀬さん

2018年にJanさんの奥様の自転車の納車に立ち会った時の写真です。
この自転車のことはBQに書かれています。

Natsukoさんの自転車と

2019年、塗り替え自転車用にヘッドマークを作ってもらいました。

2019年 ヘッドマークを作る廣瀬さん

そして、2020年5月22日。私の自転車を作る廣瀬さんの写真です。
このころになると、自転車を作るのもままならず、岡田さんが手伝いながらフレームを作っています。

廣瀬さんが作る自転車なのでH.Hiroseとして作ると言ってくれましたが、ついに完成は見ることがありませんでした。

2020年5月 私のフレームの狂いを取る廣瀬さんと岡田さん


そして、お別れ

入院中は、COVID-19のためご家族も面会させてもらえなかったそうですが、電話やメールでご家族とはやり取りされていたそうで、元気にしているとのことを奥様からよく聞かされていました。
8月末病院から面会の許可が出ました。後で聞くと、医者に容態が急変したためもう先はないからと言われたそうです。
会いに来てほしい人の3人のうちの一人に選らんでいただけたので、8月28日にお見舞いに行くことができました。
そして、8月30日の夕方にお見舞いに来る約束をして帰りました。

ところが、8月30日の朝、奥様より電話をいただき、不安な気持ちで電話に出ると、果たしての訃報でした。

本人の希望で葬式もしないでほしいとのことで、家族だけの見送りとのことでした。

廣瀬さんは、お孫さんをたいそうかわいがっていました。
会うのを本当に楽しみにされていました。
そんな気持ちをお孫さんもわかっていて、おじいさんにと絵を書いてきました。
左は廣瀬さんと奥さん、もう一つは、廣瀬さんと岡田さんです。杖ついてちょんまげ頭の人が廣瀬さんです。

棺の上のお孫さんの絵

そして、いよいよお別れの時が来ました。
棺の中には、大好きだったものを入れました。
もちろん、その中にBQ53号も入っています。入院中に看護婦さんに見せていたそうです。

出棺

大好きだった廣瀬さん。
天国でも自転車を作っていることと思います。

ご冥福をお祈りします。

(2020年9月22日 ようやく気持ちの整理がつきましたので、BLOGに私の思いを書くことができました。)